浮世渡らば豆腐で渡れ
「人は何時も明るく、礼儀正しくして、働くことを厭わなければ人生は何ととでもなるもんですよ」とよく言われてきた。これはまさしく人生の極意である。
「人は何時も明るく、礼儀正しくして、働くことを厭わなければ人生は何ととでもなるもんですよ」とよく言われてきた。これはまさしく人生の極意である。
1、身だしなみ ① 気楽な服装⇒ 相手に敬意を払ってない、相手を軽く見ている。
安全ボケしてると大けがするよ。
私は一人っ子だったから、我儘で短気だった。それでつまらないことでよく怒っていた。たとえば、こういうことはこういう風にきちんとしておかないといけないだろうと思っているのに、相手が全くきちんとしないと腹が立つ。そして怒り出すのだ。これは自分の価値観と相手の価値観が違っていることに気が付かないことから端を発している。こういう時は6秒待つといい。そうすると自分の思い違いかもしれないかも、と冷静になって考えられる。
夏目漱石の草枕の冒頭に、「智に働けば角が立つ。情に棹(サオ)差せば流される。とかくこの世は住みづらい」という名文がある。
私は行儀がよく躾けれた優等生タイプの子供だった。
私は、努力の大事さというものは人類共通の価値観かと思っていたら「私は、努力するってことが嫌いなの」と言う人がいたのには大変驚いた。みなさんはどうだろうか。
一般的には成功の確率が低い事柄でも、それが自分の特性を生かす仕事なら、チャレンジしてみろ。私は、42歳で行政書士に転向した。宗教という全く畑違いの仕事からの再出発だった。行政書士業の実際など知らなかった。なぜ、行政書士を選んだのかというと、自分はいわゆる金儲け商売には向いてない性質だと思うので、地味な資格商売であれば定年が無く、元手がいらないこと。自分は几帳面で、文書作成が好きであり、なんとなく自分に向ているように思ったからである。
人生の数々の苦難から救われたいと願い、神仏に帰依する人も多い。しかし苦難は減らない。世界は何時も戦争と、貧困、病気に見舞われて続けている。その原因は何だろうか。それは苦難とは現世の人間の修行のために仕組まれている神の摂理として人に必要なものなのであるから、苦難が地上から消えることは永遠にありえないと私は思う。
宗教の世界では、苦集滅道とか地上天国を作るとか、救いとか言って、弱い人間をひきつける甘言をもって人を虚構的世界に導くが、こうしたあり方はすべて虚構や嘘や夢であり、間違った指導である。既存の宗教は人類に対してすべて間違った指導をしているのである。地上から苦難が消えることは決してない。
では、宗教で言うところの≪救い≫は全く無いのかというと、「救い」はちゃんと用意されてある。それはシルバーバーチの霊訓によると、この世からの離脱、つまり死である。死ねば魂は自由となり、欲しいものは何でも手に入り、どこへでも自由に瞬時に移動できる。苦しみは何もない。霊界では同じ性質の魂が共同で暮らすから、もめごとは起らない。そのくらい霊界とは天国そのもののようだ。
シルバーバーチの霊訓によると、、宗教というのは本当の霊的真理をもとに、神の摂理にかなう生き方に努める行為そのもののことを言い、偶像や教祖や個人の霊を礼拝したり、現世での救いがあるかのように布教することや、教団などの組織を作ってモノや金を集めたりすることは間違った宗教のあり方であるとし、これまでの地上のすべての宗教を否定している。
霊訓の解説では、我々が冠婚葬祭などで習慣的に寺社教会にかかわっている行為はナンセンスそのものであり、例えば神社は○○の尊という人を神として祭っているところであり、寺院は○○如来とか○○菩薩という架空の救世主を偶像化して人間が縋り付くように教化する組織であり、教会もイエスを偶像化して同じように人間の依存心を求めて人を教団の奴隷のように洗脳し、自由な魂の成長を阻害していると訴えている。
既成宗教の弊害はこればかりではない。教団はエゴの塊であり、教団以外の集団を排斥し戦争まで引き起こしてきたことは歴史にみられるとおりである。既存の宗教で世界は決して平和になってない。
正しいレい霊的な知識を知ると、人間は宇宙の創造主以外の存在を神としてあがめてはいけないということが理解できてくる。人間は。神に祈るよりも神の摂理にかなうよう、自力で修行の人生を歩むべきなのである。私はこのことを40代で覚り、宗教教団の幹部から足を洗い、随分と辛い思いをしながらも思い切って人生をやり直したのだった。
教団から離脱して実際の世の中を歩き始めてみると、この世というのはまさに魂の訓練と強化育成のために、常に矛盾と非合理に満ちた世界なのであり、そうした現世をどのように乗り越えてゆくか、それが人がこの世で身につけなければならない人生修行の課題なのだとわかってきた。社会の悪と言われていることも大乗的に言うと、善が強くなるためのであると思えるので、悪も必要な存在であると理解できてきた次第だ。
世界の出来事を知ると、絶え間ない戦禍や貧困にあえいでいる人々のことを心から同情したい気持になるが、こうした不幸の数々もそこにいる人々に与えられている試練なのである。しかし、だからと言って我々は他人の不幸に対して不干渉であってはならないことは、金言3のとおり利他愛を実践すべき我々に与えられた課題として受け止めなければならない。我々は自分なりにできることに努めて、地球上のすべての同朋の不幸に対して愛の手を差し伸べよう。それが日々幸福に生活している人間の使命ではなかろうか。
こうしてみると、人の魂と、現世、霊界の仕組みというのは実に奇々怪々複雑な仕組みでありながら、寸分の狂いもなく運行されているものである。実に不思議というしかないのである。これが神の摂理の深遠さではなかろうか。
この像のように、神の摂理に叶うよう自分の力で強く生きろ!
とはいうものの、今日までの習慣となっている祖先崇拝の様々な行事を取りやめるのは、大変な人生の方向転換である。霊訓によれば葬式やお墓も無意味なものであるという。これらを妻が理解し同調してくれるだろうか。これはよくよく守護霊様のお力を戴かなくてはなしえない大転換である。仏ほっとけ、神かもうなである。
何ものにも依存することなく、一人で苦難の人生を歩むことは実に困難である。しかし、神の摂理は厳しく、真実の絶対神の摂理に従うよう努めながら、個人が魂の自由を貫き人生を完結できるよう努めなければ、本当の意味でこの世に生まれてきた自分の使命を果たすことはできない。何にも依存せず、つらく厳しい生き方を貫く者は孤独が宿命である。真の悟りは孤独から得られるものである。この道理を理解しあえる仲間を見つけることができればどれだけ励みになることか。
ここまで、自分が覚悟を決めて人生の教訓としたい金言6は「神仏に頼るな。自らを救うのは自分である」と覚れである。
以上、悠さんの6大金言が、人として生きてゆくうえで最も大事な教訓である。
次の記事からは、充実した人生のために必要な教訓を銀言として挙げておきたい。
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