浮世渡らば豆腐で渡れ

「人は何時も明るく、礼儀正しくして、働くことを厭わなければ人生は何ととでもなるもんですよ」とよく言われてきた。これはまさしく人生の極意である。

であるならば「礼儀正しく」ってどうすること?他人への声のかけ方?挨拶の仕方?依頼の仕方?訪問の仕方?物の言い方、服装や飲食の仕方、立ち居振る舞い、お土産、返礼、賀状い、公共のマナー?これらにいちいち作法が決められてるの?
私の周りの家族や、近所の人などは、ほんとに礼儀はいい加減なもんだ。静岡県遺言書協会の電話に教えてもらいたいことなどがあって電話してくる人の大半が、先ず自分を名乗らないし、タメ口が多い。なんでもタダで教えてもらえるかのように思ってるらしい。こういう時私の専門家としての自尊心はズタズタだ、また、街などに出てゆくと行き交う人々の態度など、びっくりするような厚かましさである。
礼儀の作法はいろいろあるからそれらを知らないと困るけど、こうした作法の根本思想は何だろうか。それは、相手の自尊心を傷つけないということに尽きる。相手に敬意を払う、相手に対して慎みの態度をとる、これが礼儀の根本思想だ。
相手は皆、自分を低く見られたくない、自分に敬意を払ってもらいたいと思っている。子供でもそうだ。相手は互いの年齢の上下を気にしてこちらの言動を敏感に感じて評価いるのだ。
だから、こちらは、充分繊細な気配りをして相手に不快感を与えないような言動をしないと相手を苛立たせてしまうのだ。人間は言葉以外でもコミュニケーションをとるから、こちらの無神経な仕草は相手の敬意を損なってしまうことになる。
繊細な気配りと言えば何と言っても京都人だろう。
北国にはぶっきらぼうで無神経な人間が多い。私は北海道の山の町でうまれ、中学高校は東北の漁師町で育った。それまでに学んだ礼儀と言うのは、封建的な順序第一の交際の仕方で、親戚周りの挨拶はまず本家から長幼の順で各家を廻るというもので、訪問した家では必ず最初に仏壇に線香をあげることになっていた。他にも武骨な作法がいろいろあり、知り合い同士が町でかわす言葉もぶっきらぼうなものだった
そんな私は大学生になり東京に出てきて、やがて京都の女学生と知り合い、大いに驚いたのは、彼女の言葉と仕草にみる気配りと繊細さである。顔は美人でもなかったけど、彼女の言葉には大げさなほどの大きな抑揚があり、仕草もまた細やかでとても可愛い。こんな人種はかって見たことが無かったので、私はたちまち彼女の虜になってしまった。その後就職するなどして関西の人間とも大勢付き合うようになり、関西人、特に京都の人間の言葉と態度の繊細さに感動した。
彼らはじつに上手に自分を表現する人種だ。北国の武骨人間から見ると、くにゅくにゃした、女の腐ったかのように思える彼らの態度は、まったくの異文化人種のようだった。これこそ文化の差だろうと思う。
関西人はほんとによく人に慣れている。北国とは気候も歴史もまるで違うから、同じ日本人でも天と地ほど繊細さが違うのだ。それが礼儀ひとつにもよく表れている。東国の武士の子孫は大いに関西人のセンスを学ぶべきである。関西人の礼儀はじつに行き届いていると思う。あれで自尊心を傷つけられることはまずないと思う。
こうした人間の質的な差と、人の心理をわきまえて市販の行儀本を読めば礼儀作法はしっかり身につくと思う。
他人と会ったときは、はじめと終わりはきちんと礼儀を行い、途中は臨機応変で楽しく付き合うのも良い。
「浮世渡にゃ豆腐で渡れ」 これは豆腐と言うものは四角くてきっちりしているが、触ればやわらかくて柔軟であるから、人間も豆腐のように、見かけはきちんとして堅そうでありながら中身の柔らかい人間であれば世間をうまくやって行けるよという教えのようだ。
皆から好かれるような人間で生きてゆくには礼儀にかなう言動を身に着けるべきだ。

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人の品定め12か条

デートして一緒に食事して昔話を聞けば大体の人柄が分るものです。

1、身だしなみ ① 気楽な服装⇒ 相手に敬意を払ってない、相手を軽く見ている。

      ② 礼儀に叶った服装で靴も磨いてある⇒ 相手に好感をもって貰えるよう細かい
         ところまで気配りする人。自尊心のある人。
      ③ 派手な色もの⇒ それなりの強い自己主張をしている。
      ④ 身につけている物⇒ 持ち物は主に似る。潜在的欲望。
      ⑤、ひげそり、整髪、爪切りがされてない⇒ 相手を軽く見ている。自分中心的。
2、目は口ほどにものを言い。⇒ 清光,陰光、妖光 濁り、強さ、弱さ、誠実さ、狡さ
 、人相術,、読心術⇒ 詳しくは書店で。
3、堅い職業の人⇒ 親や先輩の意見に従ってきた人。地味な努力家。自己主張が弱い。
4、言語不明瞭⇒ 意思が明確じゃない。指導力が弱い。
5、細身で食が細い⇒ 欲が少ない。性欲が弱い。血圧が低め。積極性が少ない。
  太めでよく食べる⇒物欲、性欲が強い。血圧が高め。怒り易い。積極的。我儘
6、飽きっぽい⇒ 気力が弱い。苦労知らずで育った。困難に弱い。
7、人がいい⇒ 人情に弱い。浮気や道楽、浪費に走り易い。悪性の他人働きもある。
8、子供っぽい⇒ 知力が低い。 大人っぽい⇒ 知力が高い。
9.気配り、親切⇒ 人間性が豊か。(詐欺師に注意)
10、、友人⇒ 本人と同類の人種。
11、.親⇒ 本人が育ってきた精神的な風土が判る。
12、兄弟⇒ 困りものの兄弟はいずれ自分のお荷物になる。 

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用心忘れず人を喰え

安全ボケしてると大けがするよ。

人生、特に、こういうことにご用心。
1、疑いは安全の母 明日は雨 他人は泥棒。
2、好事魔多し。
3、不意打ちに備えよ。
4、過は好むところにあり。事件はそういう時間、そういう場所、そういう服装に起こる。
5、病は口より入り,禍は口より出る。
6、医は食にあり。舌の剣は命を絶つ。
7、ちょっと嘗めたが運の尽き。
忠犬や職人で生きてゆくなら無口で真面目一方で生きて行けるが、
営業で生きてゆくには、人を喰うことだ。
人を食えないやつは女も口説けない。営業はいかに上手に相手を喰うかだ。喰われた相手がこちらに感謝しているようにしなければだめだ。
道義に外れず相手がこちらに惚れるように尽くすのだ。
政治家は皆人食いだ。歴代の偉人は皆人食いだ。
私はこれまで人を食って生きてきた。

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正強仁の真の勇者となれ

私は一人っ子だったから、我儘で短気だった。それでつまらないことでよく怒っていた。たとえば、こういうことはこういう風にきちんとしておかないといけないだろうと思っているのに、相手が全くきちんとしないと腹が立つ。そして怒り出すのだ。これは自分の価値観と相手の価値観が違っていることに気が付かないことから端を発している。こういう時は6秒待つといい。そうすると自分の思い違いかもしれないかも、と冷静になって考えられる。

私のようなこんなレベルの私憤はいけないが、利他の動機や、正義が動機のことなら6秒思い直してみて、やはり自分の考えが妥当で、今それを主張すべきだと思えたら、すぐに怒れ
その時は、正々堂々と、相手の前に出て、気合で負けないよう喧嘩しろ。男でも女でも、人生に何度かこういう喧嘩をしなければならない場面がくる。この世は善悪入り乱れているのだから、いつも感謝や思いやりばかりのお人好しではこの世は渡れないものである。
喧嘩するときは、胆力がものを言う。胆力と言うのは何度か喧嘩した経験がないと身につかない。子供のころから優等生では役に立たない。とかく喧嘩慣れしてない人間は、喧嘩の後のことやらをあれこれ心配してしまい、何もできなくなってしまう。喧嘩は出たとこ勝負であり、後のことは何とでもなるものだ。大事なことはこちらに大義があれば、必要なものは正々堂々と気合だ。胆力とはそういうものだ。
ヨシ、ここが人生の勝負だと思ったら、肚を決めて正面から相手にじかにぶつかれ。姑息なことをするな。姑息なことをすれば強さがなくなってしまう。

武道で身につけなくてはならないのは技よりも勝負の場に臨むときの胆力と気合だ。
最近の勇者として見習いたい人物は、元世界ヘビー級チャンピオンのムハマド・アリだ。
彼は、白人社会から敵視され、王座を追われるとわかっていても、ベトナム行きの兵役を拒否し、自らの尊厳を貫いた。まさに勇気ある男だ。
また、真の勇気として発揮しなければならないことは、正直さと失敗から逃げない勇気だ。
たとえ失敗しても破産しても逃げるな。自殺などとんでもない。苦しくとも精一杯の誠意で談判すれば相手だって命までよこせとは言えないものだ。自分に非があればはっきり大きな声で謝れ。こうした正直さと正々堂々の態度が自分への信頼になってゆくはずだ。
いざという時に、こういう肚の太い強い人間になろう。
全国の警察署の道場には、「正強仁」の書が掲げられている。これを実行できる人間こそ真の勇者である。
以上、平成世渡り音頭 「四に勇気」の解説でした。

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人は情けのもとに立つ。

夏目漱石の草枕の冒頭に、「智に働けば角が立つ。情に棹(サオ)差せば流される。とかくこの世は住みづらい」という名文がある。

理屈を通そうとすると人間関係が悪くなるし、かといって人情に傾きすぎると感情のコントロールを失ってしまい、自分の船は流されてどうしようもないことになってしまうという意味である。
棹差すというのは,棹を川底に突き刺してしまうと抜けなくなり、棹が川底に刺さったまま、船だけが流されてしまうことだ。こうなりゃお手上げだ。棹を川底に差してしまうような情的事態とは余程のことで、自分や家族の問題や、懇意な仲間のトラブルなど、冷静さを失うような事態だ。
こうした、理屈と人情のバランスの保ち方というのが難問である。
正義を通そうと思えば理屈で勝たねばならないし、理屈を引っ込めて情に傾いていい子になるのもずるい生き方だと思うし、どうしたらいいものだろうか。
人たらしと言われた豊臣秀吉や田中角栄などは、理屈よりも人情の力で人々を彼らの魅力の虜にした。最近では2016年に広島市を訪問し、被災者を抱擁したオバマ大統領が賞賛されている。彼に比べると安倍総理など理屈ばかりで人気が伸びない。
人が行動するときは理屈で納得したあとで、情で決心するのが最善である。情だけで決断しては間違えてしまう。つまり、人を行動に立ち上がらせるのは情である。このことをよくよくわきまえて世渡りしないと情勢を見間違えてしまう。選挙の勝敗などよく見ていると国民はムードで投票しているように思える。理論で納得した政党を支持する人は少ない。
男女関係も理屈より情で動くものだ。憎しみによる戦いも間違った情から生まれる。
このような処世術は損得で態度を決めるようなあり方のようであるが、もっと根本的な人としてあるべき思想からいうと、「思いやりのある人間になろう」という生き方でありたいと思う。
競争に負けてもいい。他人を傷つけずに生きよう。貧しくなってもいいから、人間としてのやさしい心を大切にして生きてゆこう。こうした自分の生き方に合わない会社なら辞めてしまっていい。自分は自分に納得できる生き方を貫こう。それが自分の自尊心だ。こいう人生哲学で生きるとしたなら、これは人情優先の生き方だ。もちろん自己の生存を犠牲にしてまで人情を大事にはできない。ものは程度次第だが、理屈より人情を優先して生きるなら立派な生き方である。
こういう実学は現在の学校教育ではまったく教えないから、住みにくい世の中が出来てくるのだと思う。家族を大事にしよう、友人を大事にしようという表面的な教えから、年配者を尊敬したり、老人や障碍者を大切にしたり、もっと細かいことでは、近所迷惑や、通行妨害になることやらいろいろ周りに気配りできる人間になってゆけるよう、誰よりも親が中心になって教育してもらいたい。それは親の後ろ姿教育が中心である。親が出鱈目で自分勝手な生活をしていたならば子供もその親のように育つものだ。子を見たらどんな親なのか判断できる。出来損ないの若者が多ければ、それは親世代がデタラメ人間だということだ。
人として尊い生き方とは思いやりのある心で生きてゆくことである。理屈を磨くより、人情のかけ方を学ぶことが幸せな人生を作ってくれるはずだ。
私の妻は本当に思いやり深い人間だ。子供たちも思いやり深い。私の家族は皆、私よりも魂が上等のようだ。
私はもっともっと早くこうした人生の秘訣を身につけるべきだった。どちらかというと建前や正義や理屈を中心にしてきた生き方が空しくなる。どんな人にも暖かく接することをもっともっと身に着けるべきだったと思う。
ということで、平成世渡り音頭 「三に人情 」はこのようなわけだ。

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正義よりも調和が大事だ

私は行儀がよく躾けれた優等生タイプの子供だった。

優等生と言うのは、先生の言うことが正しいと思ってるから、周りが適当ないい加減さだと怒りたくなってしまう。世の中のことも正論が通らないと義憤を感じていた。さらに私は一人っ子だったから、割合に短気で我儘で思いやりに欠けていたように思う。
だから、私が大学生くらいまでは、正義が一番大事な徳目だと思っていたようだ。ところがだんだん世の中の様子を見聞してくると、正義がかき消されてしまう社会が見えてきた。
たとえば、会社と言うのはボスの言うことが基準で働く社会らしいので、ボスがこれは白だと言えば部下は皆「そうだ、そうだ」と口を揃え、理念や正義などは簡単に無視されてゆく。
最近のマスコミ報道では、東芝や三菱自動車の不正が暴露されていたが、どこの会社もバカ社長に逆らうものはいない。コンプライアンスだのISOだの何も役に立たないのが日本企業の実態だ。いくら個人として優秀でも集団に入ると馬鹿にならないと生きてゆけない。
サラリーマンはその矛盾のうっぷん晴らしに仕事帰りに酒を飲み、上司の悪口を言い合う人種だ。
世界中の戦争も、元はと言えば、自分たちに都合のよい理屈をつけて、自分たちのエゴを拡大するのが目的で始まるものだ。最近では、2003年に、9,11のテロに対してイラク攻撃に踏み切ったアメリカのやり方がひどいものだった。アメリカには敵を許すというキリスト教国としての理念などなかった。これに日本政府が追従した。
日本政府の判断は、理屈はどうでもいいから、アメリカを支持しなければ先行き日本が困るだろうという利害計算であったと思う。こうなると、日米とも正義などはどうでもよく、アメリカの大統領はそれなりの、日本の首相はそれなりの自己保身が判断基準で行動したようだ。
世界では、いろんな民族が正義を掲げて戦いをしているが、自分たちのエゴを少し引っ込め、何とか互いに妥協しあって調和を目指し、互いの非を許しあえるようにならないものだろうか。
つまり、正義よりも、調和して生きて自分が栄えることが大事だということが現実の処世訓で、青臭い正義など何とでも理屈が作れるという訳である。
法律というものもそういう一面があり、社会の事件を見てると、逮捕までしなくてもいいような事件でも、何とかかんとか理屈をつけて拘留しいじめにかかるのが警察だ。法律は使いようでいくらでも弱い者いじめに役立つシロモノである。
こうした人間社会を知ってくると、正義が大事か自分が大事かと究極の決断を迫られたら、大概の人は家族のことも考えて、自分が生きることのほうを選択すると思う。人間の自己保存本能はそういう風に働く。戦前の日本がそうだった。戦争はしたくないと思っていても日本社会全体が戦争に参加していった。
もしもあのような日本が再現したらどうするか。戦争の原因が日本にとっての正当防衛であれば戦争もやむを得ないが、戦争する判断が日本のエゴによるものであれば私は家族を捨ててでも日本を離れて外国に避難したい.。日本国民であるよりも人間でありたい。その時は調和と言うエゴよりも正義と言う人道を守りたい。
徳川家康の人生は天下統一という正義のために、まず自らが生き延びるための妥協と調和を選択してきている。天下統一という大乗の善のために豊臣家を滅亡させたのは小乗の悪であった。
こんな人間社会を村田英雄は「どうせこの世はそんなとこ、そうじゃないかよ、皆の衆」と歌っている。
調和か正義かという問題は実に難しい選択となる。
結論的には、究極の場合を除けば、日常的には、正義はやたらに振り回さず、状況に応じて上手に正義の理屈を使えるように練習したほうがいい。義憤を感じてもすぐに拳を固めてグーを挙げてはいけない。
こぶしはパーに開けば掌となり、融和が生まれるものだ。「手というものは、握れば拳、開けば掌となる」

よって、世渡り音頭の最初は、調和が一番、正義が二番というわけである。

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平成世渡り音頭(^^♪

悠さんの金言、銀言では、人生哲学上、だれにとっても必要な精神的なよりどころを書いてきたが、次には、人生の処世訓という、人生の要領編を書いてみるので、ぜひ、皆さんの処世上の役に立ててほしい。

まずは、大事な処世訓を要約して音頭にしてみた。
題して、平成世渡り音頭
♬ 調和が一番、 正義は二番、三に人情、四に勇気、用心忘れず、人を喰え。

では、はじめは記事のタイトルは「調和と正義」 ⇒ どうぞ!
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ヒヒーン と啼いてるよ。

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悠さんの銀言2 努力した満足感が魂を豊かなものにする。

私は、努力の大事さというものは人類共通の価値観かと思っていたら「私は、努力するってことが嫌いなの」と言う人がいたのには大変驚いた。みなさんはどうだろうか。

何かを達成したいと思うなら、銀言1の強い意志力が必要で、強い意志を持ち続けるには金言2の克己心が不可欠である。努力とは、目標に向かって自らに強いる力を加えることだ。
ちなみに「我慢」とは抑えつけられてただ苦難に耐えている状態で、これはストレ「スになり、病気となってしまうが、「辛抱」は自分の目的を果たすために耐えている状態であり、「辛抱する木にゃ花が咲く」と言われる。
こうした努力には即効性が無いものだ。途中で嫌になることが何度もある。
私の人生で、辛抱して努力してきたことと言えば、1番は自分の性格の改良、2番目は仕事で業績を出すこと。3番目は大学受験、4番が禁欲(性欲、禁煙)、5番は中年以降になってからの法律の勉強.、6番がアルバイトで、ほかには町内の体育部長の活動、英会話、剣道、空手、水泳、減量かな。親孝行とか、ボランティア的な社会奉仕活動などは克己心の必要な範疇でもないから、特に努力してきたことには当たらない。
では、趣味の活動はどうだろうか。趣味とはおもむきを味わうという行動だから、我慢も辛抱もしない。飽きてしまえばおしまいにしてしまう。私なら、犬、兎、小鳥を飼う、絵や生け花、カメラ撮影を習う、合唱やピアノ、落語を聞いたり練習をする、園芸、演劇をやる、登山や旅行や読書をする、音楽を楽しむといったことが趣味の活動だった。趣味には精神力など特にいらない。気の向くままにやっていく活動だ。
家族を見ると、長男は整体師の仕事の営業で客集めに努力しているし、三女は頭が良くないのに看護師になるために人一倍勉強して合格し、きつい勤務に耐え、今は母子家庭で苦労している。妻は5人の子育てで苦労し、ここ十数年間は書道に精進して今では全国的な会の理事にまでなっている。
努力が失敗に終わることもあるが、そうした経験も含めて努力がもたらす成果は大きい。努力して達成した時の満足感は言うに言えないくらいのものだ。それこそ、自分で自分を褒めたくなる。これこそ魂の成長である。人生を生きる意味はここにこそあるのだ。
皆、大いに努力しよう!

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悠さんの銀言1 やる気さえあれば道は必ず開ける!

一般的には成功の確率が低い事柄でも、それが自分の特性を生かす仕事なら、チャレンジしてみろ。私は、42歳で行政書士に転向した。宗教という全く畑違いの仕事からの再出発だった。行政書士業の実際など知らなかった。なぜ、行政書士を選んだのかというと、自分はいわゆる金儲け商売には向いてない性質だと思うので、地味な資格商売であれば定年が無く、元手がいらないこと。自分は几帳面で、文書作成が好きであり、なんとなく自分に向ているように思ったからである。

開業して1年くらいは仕事が無かった。仕方がないから気持が腐らないよういろいろなアルバイトをやった。そして人の集まるところに行ってきっかけを作ろうと、知り合いだった衆議院選挙立候補者の選挙事務所に雇ってもらった。そこ知り合った大学教授から日本語学校の設立申請業務を依頼された。建設業者とも知り合い、許可関係の届出を依頼された。しかし、それ以来行政書士の仕事の依頼は無かった。翌年になって、車庫証明の書類作成の依頼が拾えるようになり、市内の自動車販売店を回り、どんどん依頼を貰えるようになって、忙しい時には、月に100件の申請をこなした。しかし、それも一時的なブームで終わってしまい、その後はさっぱり依頼が途絶えてしまった。またアルバイトを始めた。そのうちに税理士から風俗営業の許可申請の仕事が来たり、貨物自動車の運送業許可や酒屋の許可申請や旅行業の許可などの依頼が来て、何でもやりますと言って依頼を受けるようにした。とはいっても何も経験が無いわけだから、依頼を受けてから勉強するという、泥縄方式だった。
そこで、今度は、建設業の許可や届け出書作成の注文を取ろうと、熱心に営業を展開した。
会社設立情報誌を見ては電話したり、個人番号の電話帳から工事屋さんを見つけて電話したり、業界の会員名簿から手紙を送ったり、業者が仕事を終えて夕方帰宅するときを待ち構えて訪問したり、あらゆる努力をした。その結果、現在の顧客が出来てきた。
悪戦苦闘すること約十数年、なんとかかんとか行政書士の収入だけで暮らせるようになり、パートで働きに出ていた妻に行政書士事務所の補助をしてもらって、やって行けるまでになった。この頃、5人の子供は育ち盛りで、全員高校生になると奨学金もらって、何とかかんとか卒業してもらった。金が無いから、女子は大学に入れない。男子は国立大学の現役入学しか認めないという始末だった。その後、結婚した次女が私の事務所の補助者になり、行政書士事務所の収入も安定してきたのが、開業してから、二十年くらい経った頃だと思う。苦労の時代はよく演歌を聴いて自分を慰めたものだった。夜寝る前に自己暗示も唱えた。何とか苦境から這い上がろうと必死の毎日だった。
こんな体験から言えるのだが、何事も、やる気さえあれば道は開ける。出来ないのは自分の精神力が足りないからだと断言できる。だから、何事かを成し遂げようとする人間は、人一倍の強い精神力を発揮しなければならない。それには若いうちに、体育を充分にやって、精神力を強くすることが必要だ。悠さんの金言2がこのことを教訓として示しているから、よく読んでほしい。
これを英語では、Where there is a will,there is a way.と言う。いい格言だ。
ここまで大きな課題ではないような事案でも、やろうかやるまいか迷うときには、「やってみよう。やってだめなら、引き返せばいいや」と考えるようにしている。良いことならこの考え方で良いが、悪いことなら、初めからやらないようにする方がいい。旨い儲け話などは危険だから、未練があっても欲をかかない方が身のためである。
現在、自分は遺言書の普及活動から、大きな相続案件の受注を目指して活動しているが、これは簡単にできそうに思えたが、いざ始めてみると、なかなか受注に結び付かない困難な道である。しかし、なんとかしようと常に考えていると、不思議にいい考えが湧いて来たり、わずかな情報から小さなきっかけが拾えたり、良い人材が近寄ってきてくれたりして、試行錯誤しながらもだんだん軌道に乗り始めてきている。開拓者は常に困難と対峙しなければ道は開かない。誰も出来ないような困難な道を切り開いてゆくには、ほんとに「精神一到何事か成らざらん」の精神力しか頼れるものはない。しかし、これこそ人生の醍醐味なのであろう。
どうか、大志ある人はこの銀言を忘れないでほしい。やればできるぞ!きっと出来る!
毎晩布団の中で何度もそう唱えるんだ。そうすると必ず実現してくるんだよ!

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裕さんの金言6 神仏に頼るな。自らを救うのは自分である」

人生の数々の苦難から救われたいと願い、神仏に帰依する人も多い。しかし苦難は減らない。世界は何時も戦争と、貧困、病気に見舞われて続けている。その原因は何だろうか。それは苦難とは現世の人間の修行のために仕組まれている神の摂理として人に必要なものなのであるから、苦難が地上から消えることは永遠にありえないと私は思う

宗教の世界では、苦集滅道とか地上天国を作るとか、救いとか言って、弱い人間をひきつける甘言をもって人を虚構的世界に導くが、こうしたあり方はすべて虚構や嘘や夢であり、間違った指導である。既存の宗教は人類に対してすべて間違った指導をしているのである。地上から苦難が消えることは決してない。

では、宗教で言うところの≪救い≫は全く無いのかというと、「救い」はちゃんと用意されてある。それはシルバーバーチの霊訓によると、この世からの離脱、つまり死である。死ねば魂は自由となり、欲しいものは何でも手に入り、どこへでも自由に瞬時に移動できる。苦しみは何もない。霊界では同じ性質の魂が共同で暮らすから、もめごとは起らない。そのくらい霊界とは天国そのもののようだ。

シルバーバーチの霊訓によると、、宗教というのは本当の霊的真理をもとに、神の摂理にかなう生き方に努める行為そのもののことを言い、偶像や教祖や個人の霊を礼拝したり、現世での救いがあるかのように布教することや、教団などの組織を作ってモノや金を集めたりすることは間違った宗教のあり方であるとし、これまでの地上のすべての宗教を否定している。

霊訓の解説では、我々が冠婚葬祭などで習慣的に寺社教会にかかわっている行為はナンセンスそのものであり、例えば神社は○○の尊という人を神として祭っているところであり、寺院は○○如来とか○○菩薩という架空の救世主を偶像化して人間が縋り付くように教化する組織であり、教会もイエスを偶像化して同じように人間の依存心を求めて人を教団の奴隷のように洗脳し、自由な魂の成長を阻害していると訴えている。

既成宗教の弊害はこればかりではない。教団はエゴの塊であり、教団以外の集団を排斥し戦争まで引き起こしてきたことは歴史にみられるとおりである。既存の宗教で世界は決して平和になってない。

正しいレい霊的な知識を知ると、人間は宇宙の創造主以外の存在を神としてあがめてはいけないということが理解できてくる。人間は。神に祈るよりも神の摂理にかなうよう、自力で修行の人生を歩むべきなのである。私はこのことを40代で覚り、宗教教団の幹部から足を洗い、随分と辛い思いをしながらも思い切って人生をやり直したのだった。

教団から離脱して実際の世の中を歩き始めてみると、この世というのはまさに魂の訓練と強化育成のために、常に矛盾と非合理に満ちた世界なのであり、そうした現世をどのように乗り越えてゆくか、それが人がこの世で身につけなければならない人生修行の課題なのだとわかってきた。社会の悪と言われていることも大乗的に言うと、善が強くなるためのであると思えるので、悪も必要な存在であると理解できてきた次第だ。

世界の出来事を知ると、絶え間ない戦禍や貧困にあえいでいる人々のことを心から同情したい気持になるが、こうした不幸の数々もそこにいる人々に与えられている試練なのである。しかし、だからと言って我々は他人の不幸に対して不干渉であってはならないことは、金言3のとおり利他愛を実践すべき我々に与えられた課題として受け止めなければならない。我々は自分なりにできることに努めて、地球上のすべての同朋の不幸に対して愛の手を差し伸べよう。それが日々幸福に生活している人間の使命ではなかろうか。

こうしてみると、人の魂と、現世、霊界の仕組みというのは実に奇々怪々複雑な仕組みでありながら、寸分の狂いもなく運行されているものである。実に不思議というしかないのである。これが神の摂理の深遠さではなかろうか。

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   この像のように、神の摂理に叶うよう自分の力で強く生きろ!

とはいうものの、今日までの習慣となっている祖先崇拝の様々な行事を取りやめるのは、大変な人生の方向転換である。霊訓によれば葬式やお墓も無意味なものであるという。これらを妻が理解し同調してくれるだろうか。これはよくよく守護霊様のお力を戴かなくてはなしえない大転換である。仏ほっとけ、神かもうなである。

何ものにも依存することなく、一人で苦難の人生を歩むことは実に困難である。しかし、神の摂理は厳しく、真実の絶対神の摂理に従うよう努めながら、個人が魂の自由を貫き人生を完結できるよう努めなければ、本当の意味でこの世に生まれてきた自分の使命を果たすことはできない。何にも依存せず、つらく厳しい生き方を貫く者は孤独が宿命である。真の悟りは孤独から得られるものである。この道理を理解しあえる仲間を見つけることができればどれだけ励みになることか。

ここまで、自分が覚悟を決めて人生の教訓としたい金言6は神仏に頼るな。自らを救うのは自分である」と覚れである。

以上、悠さんの6大金言が、人として生きてゆくうえで最も大事な教訓である。

次の記事からは、充実した人生のために必要な教訓を銀言として挙げておきたい。

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